オランダトリオがACミランに来たのか
オランダトリオといえばいうも知れずルート・グーリット、フランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステンである。
ACミランのオランダトリオの衝撃はすごかった、、、
1980年代ヨハンクライフがトータルをフットボールを世に打ち出し席巻をしその世代の世代が引退をしていくとワールドカップの本大会出場させ危うくなってきたところに現れたのがこの3人であった。
そんな危機的状況のオランダ代表を1988年のヨーロッパ選手権で優勝に導き一躍世界の最前線に導いたのがルート・グーリット、フランクライカールト、マルコ・ファン・バステンなのである。
彼らは間違いのない時代の寵児でもありスターであった。
そんな彼らにいち早く目を付けた人物がいる。
ミラン会長に就任したばかりのシルウィオ・ベルルスコーニだ。
その頃のミランは低迷をしていた。
ベルルスコーニは低迷したミランを蘇らせる任務を課されていた。
ベルルスコーニは豊富な資金力でACミランを蘇らそうとしていた。
87年にはグーリットとファンバステンを、88年にはライカールトを手に入れた。
これがオランダトリオがACミランにやってきた経緯だ。
当時のセリエA
いわずと知れず世界最高峰といえたであろう。
ナポリにはディエゴ・マラドーナがいたし、1988年にはドイツ代表ローター・マテウスもメンバーに入っていた。その後ユルゲン・クリンスマンもインテルに入団している(1989年から)
その当時に綺羅星のごとく一人一人が間違いなく輝きを放っていた選手セリエAというリーグでしのぎを削っていた。
オランダトリオの初戴冠
オランダトリオは早くも結果を残す。
1970年代から長らくセリエAを支配してきたユベントスから1988年にはアリゴ・サッキ監督の素下リーグ優勝を果たすのだ。
しかし本領は次の年といえるであろう。
フランク・ライカールトが加わった次の年1989年である。
準決勝でレアルマドリードを合計スコア6-1で下し決勝ではステアウア・ブカレストを4-0で圧倒的力量で下してUEFAチャンピオンズカップを制している。
さらに代表レベルでも1988UEFA欧州選手権(UERO88)でもオランダトリオの活躍により優勝を勝ち取っている。
ファビオ・カッペロに指揮官が変わった1991年からのシーズンはヨーロッパからのタイトルからを獲ることはなくなってしまったがフランコ・バレージ率いるディデンス陣の円熟味は安定する一方でありオランダトリオをバックアップして国内リーグでは22勝12分け無敗と他の追随を許すことはなかった。
そしてマルコ・ファン・バステンは1922年にリーグ得点王、バロンドール・FIFA最優秀選手賞・世界年間最優秀賞(ワールドサッカー誌)と個人タイトルを総なめrにするのである。
この時代ののミランは「クラブ史上最強チーム」と評されることになる。
年代 | 1位優勝チーム | 2位チーム | 3位チーム |
1988~1989 | インテル | ナポリ | ミラン |
1990~1991 | サンプドリア | ミラン | インテル |
1991~1992 | ミラン | ユベントス | トリノ |
1992~1993 | ミラン | インテル | パルマ |
1994~1995 | ユベントス | ラツィオ | パルマ |
1995~1996 | ミラン | ユベントス | ラツィオ |
1997~1998 | ユベントス | インテル | ウディネーゼ |
1998~1999 | ミラン | ラツィオ | フィオレンティーナ |
1999~2000 | ラツィオ | ユベントス | ミラン |
2000~2001 | ローマ | ユベントス | ラツィオ |
2001~2002 | ユベントス | インテル | ミラン |
2002~2003 | ユベントス | インテル | ミラン |
昔は、ジェノアやボローニャ、トリノも優勝国の常連で会ったのですがセリエAの歴史は深く1898年からあったためそれらのチームが強かった時期があったのもうなずけます。
また1990年代比較的最近ですね、ビッグ7と呼ばれていた時期もありました。「ACミラン、ユベントス、インテル、ラツィオ、ローマ、パルマ、フィオレンティーナ」ですね。
これらのチームは優勝こそばらけていたものの資金力があり世界的な有名選手も集まりやすく強力なチームが形成されやすい状況であったといえます。
世界的な名ゴールキーパーブッフォンなどはパルマの出身ですね。
いずれにせよこの時代から2000年代前半まではセリエAが世界的リーグでありブランドの最強であったといえます。